養父市の歴史・文化のご紹介

養父市とは

養父市は、平成16年(2004)4月1日、兵庫県養父郡の八鹿町・養父町・大屋町および関宮町の4町が合併して成立しました。
人口は24,288人、世帯数8,713世帯(平成27年国勢調査より)、兵庫県北部の但馬地域の中央に位置し、面積は422.78km2で、兵庫県の5.0%、但馬地域の19.8%を占めています。
市の東部を一級河川円山川が南東から北東の方向に流れ、その支流の八木川に沿って八鹿、関宮地域が大屋川に沿って養父、大屋地域が位置しています。西部には県下最高峰の氷ノ山や鉢伏山、ハチ高原、若杉高原が、北部には妙見山がそびえるなど、雄大で美しい自然に囲まれています。

養父市の歴史・文化

〈養父という地名〉

養父の地名は、大変古くから使われています。
奈良時代、天平9年(737)に書かれた『但馬国正税帳』には「養父郡養父神」の文字があります。養父神は養父神社のことです。
また霊亀3年(717)以前に成立したという『播磨国風土記』には、「夜夫郡(やぶぐん)」という漢字で地名が表現されています。
つまり、養父や夜夫という漢字が使われていました。

奈良の都である平城宮跡の発掘調査で発見された木簡(板でつくった荷札)に、「但馬国養父郡老佐(小佐)郷、赤米五斗、村長、語部広麻呂」の文字が墨で書かれていました。
これは天平勝宝7年(755)5月、小佐に住む語部広麻呂という人が、奈良の都に赤米を送ったことを示す木簡です。

また平安時代に作られた漢和辞書や百科事典の要素をもつ『和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)』には、養父郡に10の郷が書かれています。
糸井・石禾(いさわ)・養父・軽部(かるべ)・大屋・三方・遠屋(建屋たきのや)・養耆(八木)・浅間・遠佐(小佐おさ)です。
つまり1300年以上も昔の飛鳥時代から養父という地名が使われていました。
和名類聚抄』では肥前国に養父郡養父郷があり、三河国と近江国にも養父郷があります。
『肥前国風土記』は、犬がほえるのをやめたので「やぶ」となったと伝えています。
珍しい地名ですが、 養父市以外でも、全国的には養父という地名があります。大薮には禁裡塚古墳など4基の大型古墳があります。古墳は円山川中流域を治めた豪族のお墓です。養父という土地に住む氏族を守る神社が養父神社であり、その氏族が大薮の古墳を造ったという説があります。現在、「やぶ」という地名や施設は、養父市場・大薮・薮崎・養父神社・養父小学校など、円山川付近にあります。漢字をみるとススキや草木が繁る「薮」を示す字も使われています。「やぶ」の地名は、円山川の景観を表した地名であると推定しています。

口米地付近を流れる円山川

■ヤブ医者の語源

皆様が一度は耳にしたことがあるでしょう「ヤブ医者」という言葉。「やぶ」の地名は、円山川の景観を表した地名であると推定しています。
現在では、腕の悪い医者、というような、悪いイメージがあると思います。
しかしながら、語源となった「養父の医者」というのは現在と全く逆で、名医の代名詞だったのです。
江戸時代の俳人で松尾芭蕉の門弟である森川許六(もりかわきょりく)という人が編纂した「風俗文選」(ふうぞくもんぜん)という 俳文集があり、この中に「薮医者ノ解」と題する一節があります。

「藪醫者ノ解」

汶村 世に藪(やぶ)醫者と號するは。本(もと)名醫の稱にして。今いふ下手(へた)の上にはあらず。
されば其風をしたひ。其業を習ふ輩。津々浦々にはびこり。やぶとだにいへば。病家も信をまし。
藥力も飛がごとし。いづれの御ン時にか。何がしの良醫。但(たん)州養父(やぶ)といふ所に隱れて。
治療をほどこし。死を起(をこ)し生に回(かへ)すものすくなからず。

※ 出典:岩波文庫『風俗文選』(伊藤松宇校訂、昭和3年10月15日発行)
※ この一節で薮医者に言及したのは許六ではなくその門弟で、許六と同じく近江彦根藩士の「汶村」という人物です。

この一節を意訳すると次のようになります。
世の中で「薮医者」という表現は、本来名医を現す言葉であって、今言われている下手な医者のことではない。
いつごろの時代であろうか。ある名医が但馬の養父という所にひっそりと隠れるように住んでいて、土地の人に治療を行っていた。死にそうな病人を治すほどの治療を行うことも少なくなかった。その評判は広く各地に伝わり、多くの医者の卵が養父の名医の弟子となった。養父の名医の弟子と言えば、病人もその家人も大いに信頼し、薬の力も効果が大きかった。

このように、本来は養父に住んでいた名医を指して養父医者と呼んでいたようです。
その知名度は非常に高く、広い地域まで噂が届き、多くの医者が弟子になりにきました。しかし次第に、その知名度を悪用し、「私は養父の医者の弟子です。」と嘘をつくものが出てきてしまいました。口先だけの「養父医者の弟子」がたくさん現れたせいで、ついに養父の名医の評判まで地に落ちてしまいました。そうして、いつしか「養父」ではなく「藪」の字が当てられ、下手な医者を指す言葉になってしまったと言われています。藪医者の語源については諸説ありますが、文献に基づいた、「藪医者とは、もともと名医を表す言葉であり、その語源は養父の名医である。」というこの説が本当ではないでしょうか。

養父市の歴史的建造物、自然

明延鉱山

かつて日本一のスズ鉱山として栄えた明延鉱山。
歴史は古く、奈良・東大寺の大仏鋳造の際に、産出した銅を献上したと伝えられています。安土桃山時代には豊臣秀吉が支配し、江戸時代には江戸幕府のもとで生野奉行所の所管になりました。昭和62(1987)年1月31日午後11時20分の発破を最後に、まだ有望な鉱脈を残したまま採掘を停止。
同年3月をもって閉山しました。坑道内は年中12〜13度となっており、夏でも非常に涼しいです。平成19(2007)年11月30日公表の近代化産業遺産認定遺産リスト(経済産業省)において、25. 我が国鉱業近代化のモデルとなった生野鉱山などにおける鉱業の歩みを物語る近代化産業遺産群」の中で、明延鉱山関係では、「明神電車と蓄電池機関車」「明延鉱山探検坑道(旧世谷通洞坑)」「明盛共同浴場『第一浴場』建屋」の3点が選定されました。

養父神社

養父神社は、兵庫県養父市養父市場にある神社で「養父の明神さん」と呼ばれ、農業の神として知られています。崇神天皇30年創祀と伝えられ、天平9年(737年)の『但馬国税正帳』にも出石神社、粟鹿神社とともにその名が見られます。
現在の祭神は、倉稲魂命、大己貴命、少彦名命、谿羽道主命、船帆足尼命の5座とされています。
1814年(文化11年)には、伊能忠敬が測量に訪れています。地元の人からの信仰があつい田舎の神社らしく、境内はひっそりとした静けさに満ちています。また、兵庫県下でも有数の紅葉の名所としても有名で多くの観光客やカメラマンが訪れます。

重要伝統的建造物群保存地区 大杉

養父市大屋町は、兵庫県において養蚕業が最も盛行した地域であり、養父市内でもとりわけ大型の養蚕住宅が多く受け継がれています。
そうした大屋町の中央付近に大杉地区が位置しています。大杉地区には、江戸時代後期から昭和30年代までに建てられた主屋や土蔵などの伝統的建造物が群として現存しています。主屋の中心は、二階建や三階建の養蚕住宅であり、その中でも三階建の養蚕住宅群が特徴のある集落景観を形づくっています。
養蚕住宅は、切妻型の瓦葺屋根、抜気とよぶ換気装置、大壁造、大きな掃き出し窓の採用という形式で統一されています。地区内には主屋27棟があり、そのうち、12棟が三階建養蚕住宅です。大杉地区には養父市を代表する優れた集落景観が受け継がれています。平成18年度に行った三階建養蚕住宅の調査では、市内に495戸の三階建がありました。

名草神社

名草神社は、養父市八鹿町(ようかちょう)妙見村に鎮座し、妙見山(みょうけんさん)(標高1139m)の中腹(標高800m)に位置します。
古くは「妙見社」と称して、近世の但馬地方における妙見信仰の拠点として栄えました。平成22年、「名草神社」として国指定の重要文化財に指定され、養父市内では、明治37年指定の「名草神社三重塔」以来106年ぶりの重要文化財指定になります。 これにより、名草神社にある本殿、拝殿、三重塔の3棟の建造物が国指定文化財になりました。国指定の建造物が3棟も並ぶ場所は北近畿でも他にはありません。
江戸時代に建てられた大規模な本殿と拝殿は大変すばらしいもので、龍や獅子、鳳凰や力童子などの精巧な彫刻も見られ、兵庫県を代表する貴重な建造物です。

天滝

天から降るかのように流れ落ちるこの滝が、落差98メートルと県下一を誇る名瀑「天滝」です。この天滝は、その荘厳で力強い姿と、滝にまつわる伝説などから「日本の滝100選」に選定されています。
また、天滝までの渓谷には、夫婦滝(めおとだき)、鼓ヶ滝(つつみがたき)、糸滝(いとだき)などの滝群があり、春の新緑、秋の紅葉を背に落ちる滝、厳寒に凍る滝(完全に凍ることはありません)、四季折々楽しい姿を見せます。